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国語科解体/再構築の必要性と方向性
難波博孝
1. 国語科をつきつめると国語科をはみ出す
国語科の授業をつきつめると、国語科をはみ出したり、抜け出したりしてしまう。そんな経験は、国語科の授業をもったことのある多くの教師が経験していることである。 例えば、「ごん日記を書こう」という広島県安芸津町立三津小学校の横田教諭の実践では、毎時間、子ども達は、「ごんぎつね」のある場面を読みながら、ごんになって「ごん日記をかく」という活動と「ごん日記を書いてみて」という作文活動とを行っていった。 子ども達がこのような二つの活動を行いながら「ごんぎつね」を読み進めていくと、「善とは何か悪とは何か」や「人と人とにはコミュニケーションが成立しうるのか」さらには、「生と死」の問題に、我が身をもって立ち向かわざるをえなくなる。その最も端的に表れるのが、最後の場面での「ごんの日記」である。ここで、子ども達は、ごんが死の間際にどのように振り返っているのかを、子ども達一人一人が問われることになる。これは、まさしく、文学を読む、という行為である。 しかし、このような一連の活動、及び、その活動から生成される「学び」は、国語科の領域を超えている。ここには、私たち一人一人の<倫理>を問い直す営みがあるからである。だから、この授業を「道徳」といっても全く差し支えがないだろう。 いやむしろ、国語科の文学教材の授業をつきつめていくと、人間の生き方に関わるのは当然なのだから、必然的に「道徳」の授業につながっていくはずなのである。 もう一つ例を挙げよう。「未来新聞を発行しよう」という広島県三原市立木原小学校の水間教諭の実践は、「海にねむる未来」という科学的な説明文を使っている。この教材では、3人の博士が登場し、それぞれの博士が海にねむるさまざまな資源を発見していったことが書かれている。しかし、教材の量的/質的制約のせいか、多くの情報がはしょって書かれてあり(このことは、国語科の説明文教材全般に通用することである)平易に短くまとまられることでかえってわかりにくくなっている。(繰り返すがこのことは、国語科説明文/評論文教材全般にいえることである)そのうえ、子ども達は、海の資源についての知識はほとんどない。既有知識がないうえに、理科で習うこともない。 水間教諭は上のような事情を考えて、教材の中に入っていく前に、学習者に3人の博士のどれかにならせ、調べ学習をさせて十分な知識を得させてから、教材に入り、そこで、他の学習者からインタビューの形で分からないことを博士役の学習者に質問する、という活動を行った。 後で質問されるとわかっているので、子ども達は、一生懸命調べ学習をして知識をまとめていった。そして、授業では、インタビュー役の子ども達の質問に見事に受け答えをしている。こうして子ども達は、意欲を持って豊富な知識を身につけ、また、インタビューの形でそれを表現していく中で、教材の読みとりを的確に行っていったのである。 これは、なんの教科の授業だろうか。子ども達が調べた海の資源に関する情報や手に入れた知識は、科学(理科)の知識である。この知識を前もってもっていたからこそ、教材文を意欲を持って読めたし、確実に理解できたのである。もし前もって調べ学習などせずに、教材文だけで読んでいたら、背景もわからず、知識や情報も中途半端な教材文にむきあって、ただただ、がまんして読んでいくだけの授業になってしまっただろう。 国語科の、説明文/評論文の授業は、その教材文を本当に理解しようとするならば、理科的/社会的知識が不可欠である。そのような知識を情報として与えたり、自分で調べさせたりする段階が不可欠である。熱心な教師であればあるほどそうするだろう。国語科の説明文/評論文の授業をつきつめていくと、「理科」や「社会」の授業につながっていくはずなのである。 国語科の授業は、ことばを育てるものである。ことば(母語)は、しかし、生活の中で、子ども達は充分学んでしまっている。国語科の学習に比べ、生活の時間の方が圧倒的に多いからである。24時間×365日=8,760時間(起きている時間だけにしても5,840時間)に、国語科はわずか200時間弱で対抗しなければならないのである。 従って国語科が、子どものことばを、本当に改善しようとするなら、「実の場」から切り離された「お勉強」では、圧倒的な生活の時間に対抗できない。学校でも「実の場」を設定し、子どものやる気を起こし、「生活で培った言葉を作りかえ/改善し/豊かにする」行為に参加させなくてはならない。 国語科における「実の場」、それは、世界の全てである。国語科を真に国語科にするとき、国語科は世界に出て行かなくてはならない。国語科は必然的に国語科をはみ出すことになるのである。 2. 国語科に落とし込むための方便とその限界
昨今の「評価基準/規準」の明確化の流れの中で、国語科実践を行う良心的な教師を追い込まないようにするために、私は次のような提案を行い、教師たちにアドバイスをしている。 それは、活動内容/目標と学習目標を区別して設定するということである。学習目標は、現行の国語科の枠組みの中の目標であり、国語科の評価規準(基準)といわれるものに対応している。しかし、例えば「文章の要点をつかみ的確に要約できる」といった目標だけを達成する授業は、国語科であって国語科ではないことは前述したとおりである。 そこで、私は、もう一つ、活動内容/目標を設定することを勧めている。それは、例えば、先ほどの「ごん日記を書こう」という単元であれば、毎時間「ごん日記」と「ごん日記を書いて」を書くことが「活動内容」であり、最終的に「ごん日記」と「ごん日記を書いて」を完成させ冊子にすることが「活動目標」である。この活動内容/目標は、国語科の授業を「実の場」にするための装置なのである。しかし、これは、あくまで方便である。なぜか。 学習は、評価と一体のものである。学習は評価されるからすすんでいく。しかし、上の枠組みでは、学習目標だけが評価されることになる。正確に言えば、学習目標だけ評価すればいいことになる。活動内容/目標は、現行の国語科の枠組みでは、評価しなくてもいいのである。 「ごん日記を書こう」の実践において、教師は当然毎時間、子どもが書いた「ごん日記」と「ごん日記を書いて」を集めるだろう。集めて「赤ペン」を入れるだろう。そこでは、子ども達の倫理的な価値認識を高め/深め/ゆさぶるような書き込みがなされることが期待されるはずである。 しかし、現行の国語科の枠組みでは、これらの教師の取り組みはしなくてもいいのである。なぜなら、活動内容/目標は、国語科の目標(評価規準/基準)ではないから。時間に追われている教師が、このような取り組みをする余裕を(まさしく現行の教育制度では「余剰」としかいいようのない目標設定ととりくみ)を失っていくことは想像に難くない。 実際、評価基準/規準を達成しようという呼びかけが、評価基準/規準を達成すればいいという「言説」にすりかわっていっている。その結果、国語科は、「実の場」の設定する足場を失い始めているのである。やはり方便は方便でしかない。 さらに、現行の国語科学習目標そのもの(評価規準/基準)そのものの問題もある。現行の国語科学習目標は、現行の国語科領域に従って(つまり、「話すこと・聞くこと」「書くこと」「読むこと」「言語事項」)で成立している。しかし、ここには、「身体表現」の項目がない。例えば、スピーチを行うとして、スピーチにおける身体表現は大変重要な要素である(視線、表情、身振り手振りなど)。しかし、国語科の学習目標に身体表現の項目がないために、これらの要素は、「学習として評価されない」のである。スピーチの学習を行っているにもかかわらず、スピーチの最も重要な要素を評価できない(改善のためのアドバイスは、現行の国語科では、オプションなのである)という致命的な欠陥をもった学習になってしまう。 さらに、現行の日本の教育制度/教科の枠組みでは、「演劇」や「映画」「ダンス」のような複合的な表現を「学習」として行うことはできない。これらの表現活動を学校で行っても、「学習目標」が、国語科/体育科/音楽科などにばらばらにされてしまい、またそれぞれの表現活動特有の要素(「映画」ならカメラワークのスキル、「演劇」なら舞台を広く使うスキル、など)が、全く「学習目標」として設定できないからである。結局これらの表現活動は、総合的な学習の時間に委ねられるか、「部活動」として行われるだけになるのである。これらの表現活動が、総合的な表現活動として多くの国々で「学習」として行われているのにもかかわらず。 3. 国語教育の「改革」の方向
一方、国語教育の公的な「改革」はどのように進められているだろうか。 2002年度(小・中)、2003年度実施の学習指導要領では、それまで表現/理解/言語事項という2領域2事項だった国語科が、話すこと・聞くこと/書くこと/読むこと/言語事項という3領域1事項に組み替えられた。ただ、そのこと自体は大きな事柄ではない。せいぜい話すこと・聞くことが新設され、その重視が公的に宣言されたことや、この中に「話し合う」という指導事項が組み込まれたことぐらいが注目されることだろう。授業時数が減ったことや、漢字を2学年にわたって教えてもよいことも、それほど大きな変化とは思われない。 問題は、評価が相対評価から絶対評価に変わることにより、国語科の授業が今まで以上に、平板化したものになりかねないことが起こっていることである。 どういうことかというと、学習指導要領に拠って作られた、国立教育政策研究所の「評価規準」が、各学校の絶対評価のための基準となり、ひいては、授業そのものの形成にも大きな影響を与えていることである。 例えば、「読むこと」の評価規準の具体例の中の、文学的な文章に関わると考えられる箇所は次のようになっている。
このような記述はこれまでの指導要領の方向性とそう変わるものではない。しかし、従来は、このような記述をふまえながらも、個々の教師が教室の学習者や地域、教材に合わせて、授業の目標を加えていた。例えば、戦争児童文学の教材を扱うなら、「戦争や平和について自分なりの考えをもつ」のように。 ところが、現在は、評価規準が絶対化され、授業がこの方向性でのみ評価されようとするだけでなく、授業内容そのものも縛られてしまい、たとえ戦争児童文学の教材であっても、登場人物の人物像をまとめ情景描写を読み味わう、だけの授業を作ろうとする動きが出始めているのである。評価規準の「絶対化」である。 こういった動きが広まってしまい、評価規準に沿った内容だけの授業が国語科で横行し始めると、ますます、「生の言葉」「生涯の言葉」から、国語科は離れていってしまうのである。 4. 国語科解体/再構築の方向性を探る
では、どのように国語科を考え直していけばいいだろうか。そのヒントとして、「児童の言語生態研究会」の研究と実践の積み重ねを見てみたい。 この会は、上原輝男氏を中心に結成され、1968年には雑誌「児童の言語生態研究」が創刊され、現代にいたるまで15号が刊行されている。毎号必ず記される、「児童の言語生態研究趣意」には、上原氏及びこの研究会の研究の方向が示されている。 「われわれは成育しつつある子どもの言語生態を、正確に見届けることを、何よりの国語教育の基礎に据え、そこから出発すべきであります。遅ればせながら、感情・思考及意識の発達とともにある子どものことばの実態を、調査、研究して、子どもの側からの発言を世に問いたいと思います。思えば、子どもの言語生態とも言うべき基礎資料を得ることなしに、国語教育の目的と方法が論じられすぎました。また、われわれ現場人が、それらの基礎資料をどれほど構えて子どもに接していたでありましょう。国語教育の目的と方法及び実践の確立に資すべき、最初の条件であったと思うのであります。」 ここには、学校現場を超えて、生活の場に於いて展開される、子どものことばの姿をありのままに見ていこうとする姿勢が見られる。このことは、次の上原氏の言葉からも見えてくる。 「私たちの仕事は、母国語の教育なのである。子どもの魂の成長と一つになっていくことばを母国語という。小学校教師に課せられた最も大きい負担は、教科"国語"のお仕着せではなくてその子どもの母国語発達だと思うことである。(上原(1991)p.3)」 また、「感情・思考及意識の発達」という言葉には、ただ表層の言葉に注目するだけでなく、その根底にある、感情・思考・意識をみていこうとしており、また、発達的な観点もあることが分かる。このことは、次の上原氏の言葉からも、明確に見ることができる。 「われわれの研究は、子どもの気の働きや、思い方の変容について、発達的様相を知ることを何よりの急務とした。子ども自身の気の赴くところ、思うところ、思い方、思いの内容以外のところに、彼等たちの自然な言語形成はあり得ないと思うからである。上原(1975)」 以上のことから、「言語生態研究会」の研究は、本論の冒頭に述べた、学習者自身のことばのまなびの変容(発達)を学校内の生活にとどまらず、学校外の生活でのことばのまなびをも視野に入れた研究の先駆として、評価されるべきものであるということができる。 上原氏は、感情を根底に、「感情」「思考」「構え」「言語作業」という四つの分野を言葉の生態の中に設定している。従来の国語教育のほとんどがおこなってきたことは、「言語作業」であるとし、学習者の感情や思考、心の構えを見つめ育てる必要を訴えたのである。 「感情・思考・構え・言語作業と四分野に、国語の授業を区別して行うのは、子どもの精神発達の土俵をそう限ってみる方が、子どもたちのただいまの問題点を引き出しやすいからである。(上原1991p.19)」 上原氏、及び「児童の言語生態研究会」の研究の積み重ねは、学校教育における国語科授業改善が主流であった、国語教育研究では、大きく生かされることはなかった。しかし、国語教育の研究対象を、より学習者へ、より一生涯へ、より生活へ、と拡大して考えていくとき、これらの研究を足がかりに、国語科の再構築の手がかりとしたい。 5. 国語科解体・再構築の方向性
私は、国語科の再構築の方向性を次のようにまとめたいと考えている。 (1) 生態という視点 (2) 匿名でない個人という視点 (3) 生涯発達という視点 さらに、先に見たように、まさしく「生態」という名を冠する「児童の言語生態研究会」の枠組みは、「感情」「思考」「構え」「言語作業」の4つ領域で捉え直すことであった。このことは、「ことばの生態」を踏まえた上で国語科の再構築を考えるためには、これらの領域が欠かせないということを示している。 ただ、これらの領域の提案は、70年代に「児童の言語生態研究会」が行ったものであり、改訂する部分もあると考える。 本稿では、仮説的に次のような枠組みで、国語科の再構築を行ってはどうかという提案を行ってみたい。なお、以下の要素は、「モジュール」といわれるものである。「モジュール」とは、「独立しながらも組み合わせられることでより力を発揮するもの」ということで、以下の各要素も、それぞれが独立したカリキュラムと内容を持つ一方で、実際の授業では組み合わされて実践が行われると一層の力を発揮するものと考えている。 6. 国語科の6つの領域への解体と再構成
私は、ここまでの考察をふまえて、次の三つの提案を行いたいと考える。
まず、(1)について述べたい。 私は、国語科を以下のように解体・再構築することを提案している。以下が再構築された領域である。 なお、下記に出てくる「モジュール」とは、「それ自体独自の機能を持ちながら、複合されることで別の新たな機能を持つことができるもの」という意味で使っている。つまり、それぞれの領域は、それ自体独自の内容と目標をもったものではあるが、他の領域と複合されることで、新たな教育機能の発揮が期待できる、ということである。 (A) コミュニケーション領域 (B) 表出領域 (C) 思考(あるいは論理)領域 (D) イメージ領域 (E) 思想領域 (F) メディア領域 次に(2)と(3)をあわせて述べたい。 まず、(2)の「活動と学習の弁証法的統一(計画や分析上での分離と実践上での一致)」であるが、これは、第一に、学習者の実態や興味などに即して活動を設定することと、そこでどのような学習目標を達成させるかをはっきり区別して計画することである。第2に、明確に区別された活動と学習とを、有機的に統合させて実践を行うことである。 次に、(3)の「6つの領域からの学習目標の明確な設定」であるが、(2)で設定する学習目標は、従来の国語科ではもちろんなく、解体/再構築された6つの領域から設定されるべきであるということである。 例えば、単元例「宮沢賢治作品を劇化して発表しよう」で考えてみよう。 この単元での活動目標は、この単元名通りの「宮沢賢治作品を劇化して発表しよう」である。では、この単元のどの場面でどのような学習目標が達成できると想定できるだろうか。その対応関係は例えば、以下のようになるだろう。
例えば、宮沢賢治作品からなにを台本化するかを考えることは、文学作品というメディアをどのように受容し批評していくかということになる。また、脚色したり役を決めたりするときにも、メディアリテラシーを駆使して作品を分析しつつ、作者の思想をとたえ、自分なりに消化するという学習も必要となってくる。 実際に劇の練習に入ると、大きく分けてキャストとスタッフの活動が行われる。キャストの活動では、自己を役に載せて表出する学習が期待できる。一方、スタッフとしての活動では、美術や技術の領域の活動の他に、理科(音や光の効果などの学習)が期待できる。また、情報宣伝活動では、ビラやチラシを作るので、芝居のイメージを具現化する学習が期待できる。リハーサルから本番までは表出領域の学習が期待できる。 最後の「学習としての振り返り・補充」は、ここまでの学習としての振り返りを行い、場合によっては、学習の補充を行う。例えば、照明プランの作成において、そこで学習した、光の特性やコントロールの仕方など以外に、光についてのその他の特徴を補充学習するのである。 7. 最後に
ここで示した領域プランや単元例はあくまで一例である。しかし、現行の国語科では限界がきていることは明らかである。さまざまな人々がさまざまに考えを出し合い、改革の道に進まなくてはならない。なお、最後にいくつかの点をつけ加えたい。
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